元ソープ嬢でシングルマザー……異色の経歴を持つ色街写真家・紅子さんの半生。48歳からカメラを始めたその理由とは?!
「色街」とは、どんな場所なのでしょう?痴的好奇心が強めのmanmam読者の皆さんは多少なりとも知識があるやもしれませんが、一般的には遊廓や赤線などのあったところを意味します。東京の吉原や大阪の飛田新地あたりは代表的な色街といえるのではないでしょうか。
▲大阪・飛田新地(紅子さん撮影)
そんな色街を全国津々浦々で撮り続けている一人の写真家さんがいます。その人こそ、色街写真家の紅子さん。48歳からカメラを始めたという彼女は、徐々に薄れゆく色街の記憶を残すべく個展やイベントなどを開催し、精力的な活動を続けています。
今回は、そんな紅子さんの半生を紐解くべくインタビューを実施。そこで語られた彼女の歴史の中に、色街をカメラで記録し続ける理由が隠されていました。
――紅子さんは現在51歳。カメラを始めてから3年ほどにも関わらず、今や色街写真家として大活躍をされています。
「まさか自分がカメラを始めるなんて思いもしませんでした。街を歩きながらスマホで気になる場所を撮影して、テキストを添えてインスタでアップしていくうちに、なんとなくカメラを買ってみたのがスタートだったんです。使い方もYouTubeで調べたりしていたので、全くの独学なんですよ」
――なぜ、題材に色街を選ばれたのでしょう。以前から性産業の世界に興味を持たれていたのですか?
「もともと、そういう世界で働いていたんです。ピンサロから始まり、ヘルス、ソープなど一通りの業種を経験しています」
――そのあたり、ちょっと詳しくお伺いしたいです。まず、どういうきっかけで風俗の世界に足を踏み入れたのでしょう?
「家のポストにフロアレディ募集の広告が入っていて、日給一万円以上なんて書いてあったものだから面接に行ったら、実はピンサロでした~という、よくあるパターンです(笑)」
――フロアレディのはずがピンサロって、確かにわりと当時の王道ですよね。
「ただ、幼い頃から裸になる仕事が気になってはいたので、そのまま働くことにしました。裸になれば『自分みたいな地味な女でも男性から受け入れてもらえるのかな』と思っていたんです。まあ、一週間も働けばそれも幻想だと思い知りましたけどね。そっち方面の経験値が浅いから下手だし、見た目も大人しい系だし、お客さんからの評判も全然ダメでした」
――その後すぐに辞めたりはしなかったのでしょうか。
「はい。その頃は美術系の学校に通ってはいたのですが、自分はこれからどういう仕事をしていけばいいのか悩んでいたんです。金銭を稼ぐためだけの労働を積み重ねて生きるのは空しいとも思っていました。結局、風俗を辞めることはせず、ヘルスやピンサロなどのお店を幾つも転々としました」
――ソープで働きだしたのはいつ頃だったのですか?
「21歳の時ですね。当時は渋谷のピンサロにいて、折しもギャルのバリバリの全盛期。そんな中で地味~な私が働いているものだから、同僚の女の子たちからも気味悪がられていたんです。そんな中、あるお客さんから吉原という街の存在を教えてもらいました」
――吉原っていう面白いところがあるよ、みたいな?
「いえいえ。ニュアンスとしては『吉原に行ったら人生の終わりだよ』って感じでしたね。でも、私はそれを聞いて『行きたい!』って思ったんです。翌週には面接に向かっていました。コンビニの女性求人雑誌が当時はあったので、『素人専門』みたいなキーワードを見つけてお店をピックアップしました」
――思い立ったが吉日、といったスピーディさですね。ソープで働き始めてみていかがでしたか?
「あの頃まだヘルスは黎明期だったせいもあって、女性の扱いがものすごく雑だったんですよ。その点、ソープはちゃんとしていて『こんなに人として扱ってもらえるのか!』と衝撃を受けました。講習が終わってフロントに降りていったら、店長やスタッフが『おめでとう!』なんて大歓迎してくれて。それは女の子を持ち上げて安価で気持ち良く働いてもらうための手法だったと、今ならわかるんですが、当時は『なんて丁寧な人たちなんだ!』と感激したのを覚えています」
――ソープでは何歳くらいまで働いていたのですか?
「32歳までです。10年以上やっていたら、さすがに疲れきりました(笑)。そして、このタイミングで結婚をしています。3年後には息子を出産し、専業主婦として暮らしていました」
――結婚生活は順風満帆でしたか?
「それが、子どもが一歳になった頃に夫が浮気をして離婚してしまったんです。その後はシングルマザーとして子どもを育てることになったのですが、職歴も貯金もなくかなり厳しい生活を送っていました」
――風俗の仕事をもう一度始めるという発想にはならなかったのでしょうか?
「それはなかったですね。事務系を中心としたパートの仕事で生計を立てていました。社会人としてのマナーやパソコンの使い方も全くわかっていなかったので、朝起きたら字の練習をしたりパソコンの勉強をしたり。今考えればなかなかハードな日々を送っていたように思います」
――そして48歳になり、色街写真家としての活動がスタートしたのですね。
「息子も成長して自分の時間ができるようになったのが、そもそもの始まりです。路地裏やスナック街、風俗街の片隅など、とにかく私の琴線に触れるものを撮影していたのですが、そこの歴史を調べると殆どが遊郭や赤線の跡地だったんですよ」
――最初は意識していたわけではないのですか?
「はい。例えば親不孝通りを用事があって歩いていた時に『この名前はどういう意味なんだろう?』と不思議に思って調べてみたらまさにそういう場所だった、みたいな。偶然が重なり続けたんですよ」
▲京都・橋本遊廓(紅子さん撮影)
――もはや、紅子さんが色街写真家になることが必然だったとも思えるお話です。
「でも、私は良い写真を残そうという気持ちはあまりないんですよ。あくまでも、自分が辿ってきた風俗の街や遊郭の歴史、そこに生きる人々の暮らしを現代に残していきたいという思いが強いんです。カメラというのは手段の一つでしかありません」
――今後も日本全国の色街をカメラを通じて記録していきたいということですね。
「今やっていることをもっともっと、突き詰めていきたいと考えています。まだ全国の色街には150か所くらいしか行けていないので、いずれは全てまわりたいですね。地元の方々とのご縁に恵まれたらいいなといつも思っています」
――ただ撮影をするだけではなく、そこに生きる人たちとの対話もしていきたい、と?
「先日も飛田新地に行ってきたのですが、その時は飛田の方たちに飛田会館(かつて遊女の性病検査をしていた場所)を案内していただいたんですよ。ネットなどでは怖いと思われがちですけど、こんなに親切にされることってないと思うくらい優しい人たちでした」
――それは紅子さんが、色街の歴史に真摯に向き合っている証ではないでしょうか。
「有難いですね。人との縁を大切にして、街の人たちとのコミュニケーションをとりながら、これからも活動し続けていきたいです。ただ撮影してアップするだけでは意味がないと思うんですよ。地元の人と話すことでしかわからないこと、それで見えてくることってたくさんありますから」
――ありがとうございました!
2024年8月1日からは、四谷のアートスナック番狂せにて個展『元ソープ嬢紅子が撮る「遊廓・赤線」』を開催予定。ぜひ皆さん、紅子さんのカメラを通じて見えてくる「色街」の姿を体感してください!
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